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2024年3月27日(金)   中山道 奈良井宿 
 快晴の天気予報に誘われて、中山道随一の宿場奈良井宿に出掛ける。中山道歩きでは江戸時代から続く旅籠の伊勢屋に宿泊したので、延べ二日にわたり見物したことになるが、歩くことを優先したこともあり、ゆっくりと宿場内を見ることができなかった。今回は、江戸時代の宿場の家並みだけでなく、4~5時間かけてのんびりと散策する。

 奈良井駅を出たほぼ正面の高台に、中山道の面影を伝える旧道と二百地蔵の杉並木が残っている。木曽路の土道のぬくもりと杉の木立の隙間から射しこむ陽光が旧道の面影を引き立てている。杉は17本しか残っていないため、並木は20メートルほどで終ってしまう。江戸時代の旅人は杉並木を抜けると、目の前に奈良井宿の建物が建ち並び、山道を歩いて来た疲れを忘れ、ホッとした気分に浸ったことであろう。
 まだ雪が残る、杉並木の脇に建つ地蔵堂の前の左右には、聖観音、千手観音、如意輪観音等の石仏200体ほどが祀られている。石仏群の手前に、江戸時代末期に念仏を唱えて全国を巡った徳本上人の名号塔を見つける。街道歩きを始めるきっかけとなった大山街道歩きで学芸員から教えられて以来、興味を持った徳本名号塔に出会えて、takeshiのぶらり歩きの幸先良いめぐり合わせとなった。徳本さんに感謝。
 宿場の下町は道の改修工事が行われ、安全のため通行禁止となっている。
  
 杉並木と旧中山道。一瞬、木曽路の街道歩きに戻ったような気分になる。
地蔵堂前の左右に並ぶ石仏群。明治時代に国道開削、鉄道敷設にともない、奈良井宿周辺に祀られていた石仏をここに集めたという。 
 独特の書体で刻まれた徳本上人名号塔は一目見てそれとわかる。境内は木立に囲まれ日陰のため、残雪が多い
道改修工事で通行止めの奈良井宿・下町家並みには観光客の姿は一人もいない。これも観光シーズンに備えての準備

  奈良井宿の中町に、慶長年間(1602年)から明治維新まで上問屋と庄屋を兼務した手塚家の建物が史料館として残っている。建ち並ぶ建物は庇が共通して長く、2メートル近くあり(この地方では「出梁造(だしばりつくり)と呼ばれている)、雨・雪の時などの出入りは濡れることがなく楽であるが、影もその分長くなり、薄暗い印象を与える。
 建物内に入ると、問屋は荷物を搬入し、それを送り出すのが商売なので、広い土間、三和土があると想像していたが、すぐに畳敷きの部屋と台所・畳敷きの部屋が左右に配置され、中廊下が続いている。
 中廊下は上段の間の二面を取り囲む外廊下となり、外廊下の周りは庭となる。上段の間は明治天皇が行幸の折、昼食を摂った部屋で「行在所(あんざいしょ)」として、そのまま使われることなく保存されいてる。

見学を終えた外国人観光客が出てくる手塚家住宅は国の重要文化財に指定され、現在は上問屋史料館として公開されている。

手塚家の中廊下と左右に並ぶ部屋。昔の日本家屋は夏を旨として作られたため、内部は暗く、足裏は冷たくなり、寒い。

外廊下の左が明治天皇が昼食を摂った行在所。庭には残雪

2階から格子越しに宿場内の様子を見ることができる。
長くせり出した庇を支える垂木と外の明るさが対照的

 中町から右、左と曲がる鍵の手、いわゆる桝形を通ると、塗櫛問屋を営んでいた中村家住宅が建っている。約180年前に建築された建物は、国の重要文化財に指定され、一般公開されている。間口が3間2尺(6.02メートル)、奥行き9間半(17.2メートル)の平入りの建物であり、宿場ではよく見かけるが、長い庇が特徴的である。未だに残雪がみられることから積雪対策の工夫かもしれないが、風情のある建物である。
 中村恵吉は、18世紀中頃に櫛挽の技術を奈良井に持ち帰り、江戸時代に奈良井で盛んであった漆器に用いる漆を櫛に塗ることを思いつき、これを製造・販売すると、中山道の旅人に大人気となり、以来奈良井宿の土産物として有名になったという。因みに、現在では漆器の職人たちは江戸寄りの平沢地区に移り住んでしまい、奈良井にはあまりいないとのことである。
 1階のミセノマは蔀(しとみ)を室内に引き上げ、障子を外すと店となり、塗櫛を並べて街道を行き来する旅人を呼び止めていたのであろう。奈良井宿の次の宿場・藪原宿では、塗りものを施していない「お六櫛」と呼ばれた柘植の櫛が土産物として人気であったというが、このような店構えで商いをしていたと想像される。 
 

中村家住宅は前面に対して妻側の側面が倍以上広い
 

吹き抜けのカッテと障子で隔てられたミセノマ。手斧で削りだされた梁と束の骨組みが美しい 

蔀(しとみ)が手前に引き上げられ、往時は障子を外して塗櫛を並べて街道に面した店となった。

中村家に代表される町家建物の部分名称
 
 中山道歩きのときに見落としていた本陣跡を訪ねたが、本陣跡と書かれた白杭が建つだけで建物は残っていない。これだけ往時を伝える建物を残しているのに本陣建物がないのは残念であり、不思議である。火事で焼失したのか、あるいは維持できずに取り壊したが、さりとて大規模な本陣建物を再建するのは費用的に難しかったのであろうか。
 宿場の中央に間口7間(12.6メートル)、総二階建ての徳利屋の建物が建っている。御休みで内部を見学することは出来なかったが、延宝3年(1675年)に縁起を担いで徳利屋と改称してから350年も経つ、本陣、脇本陣とは趣きを異にした大旅籠として明治時代も営業を続けていたという。幸田露伴、坪内逍遥、島崎藤村等の文豪なども宿泊したという。
 奈良井宿の中山道に沿って流れる奈良井川に架けられた木曽の大橋は、総ヒノキ造りのアーチ型の木橋で宿場の対岸に設けられた道の駅の芝公園と繋がっている。冬場は通行が禁止されており、いわゆる太鼓橋を渡ることはできないが、木曽ヒノキの香が漂ってくるような気品と美しさがある。
 中村家住宅の受付の方も言っていたが、奈良井宿を訪れる観光客の半数は外国人のようで、ここでも外国人観光客が良く調べているもので、木曽の大橋をバックにして記念写真に収まっている。インバウンドも日本経済のためには結構であるが、もっと日本人に日本の良さ、歴史、文化を学んで史蹟名所を旅してもらいたいものである。
 

宿場の街道から奥に入ったところに本陣跡を示す白杭が建っているので、本陣は街道に面していたはずであるから、ここは本陣の一番奥なのかもしれない。
 徳利屋の建物は町家建物の特徴を残しているが、間口が他の建物よりも広く、威風堂々としている。

通行止めのロープが張られ、渡ることは出来ないが、橋上には雪が残り、雪景色の木曽の大橋もさぞかし絶景と想像する。

アーチが美しく、甲州街道にある日本三奇橋のひとつ猿橋を思い出す。


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